「アテンションエコノミー」とは、アテンションとお金が連結されることではない。「シェアできないもの」はお金(エコノミー)で回り、「シェアできるもの」はアテンションで回り、両者が無関係に並立することだ。
この点に強く同意。
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瑣末なことを言うと、「シェアできるか」というより「占有できるか」が重要な気がする。成り立ちでいえば、お金は食べ物とも毛皮とも交換できる「貝」であったり「金」であったりして、お互いに貨幣と物の占有権を交換していた。その後、無形物とお金の交換が生まれる。例えば労働と対価の交換。しかしこの場合でも、労働者の提供できる労働時間を雇用者が占有するというモデルが成立する。
難しいのは情報(インフォメーション)と対価というケースだが、「あなただけに教える」ケースはもちろん占有(情報と、情報の配布権を占有する)で、こうした情報屋モデルは問題なく扱える。また配布権を占有しなくても、初期はそもそも情報の「賞味期限」内に伝えられる人数が「あなただけ」に近かったので、それほど問題にならなかったかもしれない。
しかし、いまや労働も情報も非占有モデルで配布できる。オープンソース開発は労働成果を共有してしまうし、情報はインフォメーション、データ、レポートの別を問わず無限に複製が、そして無段階に複製の複製ができてしまう。そしてどちらも、「賞味期限」内に無慮数銭の人に届けられる。
こうして「交換して占有できるもの」と「共有され占有できないもの」が生まれており、前者を前提にした「交換できるお金」を後者にあてはめようとすると噛み合わない。その通りだと思う。
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そして「人は…両方とも必要としている」という指摘もその通りだ。しかし、正確にいえば、人はエコノミーへの参加を必要としており、アテンションへの参加を希求している。
問題は暮らしていくのに必要なのは前者だ、ということだ。現状で、アテンション抜きでも生きていけるけど、お金なしには生きていけない。住居、食物、衣食、すべて占有モデルでしか手に入らない。現状で、エコノミーに注力するスタイルはありえても、アテンションに注力するスタイルはありえない。
「両者を連結しないといけないということはないとおもう」には疑問があって、どこかでアテンションでエコノミーを購う方式が提供されるか、アテンション抜きで生活が保障されるか、そうしたことがないとアテンション=余技、遊びでしかないままじゃないだろうか?
占有が本質的という指摘はまさにその通りでヒザポン
(via uncate)
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